生い立ち

私の兄は、自閉症。

兄は自分の感情をコントロールすることが苦手な人。

兄が母と言い争う声が日常茶飯事で聞こえてくる、そんな環境に囲まれて生活をしていた。また兄が歳をとるにつれ、知識も増え、母に注意された際、自分の間違えを正当化するため、母への反抗、争う声が大きくなった。
さらに、彼は身長が高い。暴れ回ったら、誰も止めることはできない。いつからか私の中での兄は、一生理解できない怖い存在、関係は良好ではなかった。

それでも小さい頃は無邪気なもので、兄との関係は良好だった。

そんな中でも、忘れられない言葉がある。小学一年生の頃、兄と一緒の学校に通っていたのですがその当時から彼は感情のコントロールが苦手で、よく怒り叫んでいるところを先生が抑えることがあった。
それを目撃した友達が言った、「あなたのお兄ちゃん変だね」その言葉から、自分の兄が変わっていることを理解した。

そこからは、兄という存在を恥ずかしく思うようになり外出先でも急に怒り出す兄が許せない、一緒に出かけたくないという思いが大きくなっていった。自分の中で、友達に知られたらいじめられるかもという思いが少なからずあったのだろう。

中高は違う高校に行きましたが、自分から友達に兄のことを話すこともなく、聞かれてもはぐらかしていた。

私の親は、兄の気持ちを尊重し私には兄の自閉症について詳しいことは全く話さなかったが、一緒に暮らしていれば気づくもので兄が障がいを持っているという確信は徐々に大きくなっていった。
何が、私の中で苦しかったか、それは争い合う声。中学校に入り、部活、勉強が一段と忙しくなりストレスが溜まっていく中で”家”がまったりできる好きな場所だった。そんな中で、聞こえてくる怒号は自分から安心を奪い、さらなるストレスの原因。
また、思春期に入り親と話しづらくなり、自分の気持ちを親に伝えることはほぼなかった
そう記憶している。
自分のストレスとの向き合い方がわからず、かといって親にも誰にも頼ることができず溜め込み、たまに我慢できなくなり母と喧嘩したり。とにかく荒れていた。

留学と喧嘩

コロナが明けた頃、留学することが決まった。
結果として、私は兄と関わることが一切なくなり、ある程度のストレスから解放され自由な毎日を送っていた。

問題は、帰国後。自由な生活を送っていた私は、兄という存在が再び重くのし掛かった。反対に、兄も妹がいない生活に慣れきった中で、また加わった私がストレスとなった。
それは積もりに積もり、きっかけは覚えていないが大きな喧嘩に発展した。
親からしっかり叱られる、自分でもなぜやったのかわからない、でも叱られる理由がわからない。両親は私の気持ちを全く理解していない.この感情だけ大きくなり親と和解するのにも時間がかかってしまった。
その時、相談できない、この感情は大きくなりすがる思いでGoogle検索をしてみた。

”兄 自閉症 辛い”

検索すればするほど、Yahoo知恵袋で同じような状況にいる方を発見。いろいろな状況にいれど、相談できる人がいないというのは同じでアンサーまでじっくりみた。
私も、顔も知らない誰かにでも相談したくなり、自分が悪いのか?、今までの状況を要約し質問をしてみた。
勇気がたくさん必要だった。
もしかしたら、知らない人から怒られるかもしれない。批判されるかもしれない。
暇があれば、Yahoo知恵袋に行き誰かアンサーしていてくれないか確認した。投稿二日後に初めてアンサーがきた。

自分を責める必要はない。

そんな内容の文章に、誰からもわからないのに涙が溢れた。

親との話し合い

喧嘩後、親とも最低限しか話さない日が続いた。
話し合いのきっかけは、母が私の部屋に来て私に何を考えているのか聞いてきた日。
最初はずっと黙っていた。話し方がわからなかった。
いつからか、素直な感情を話すのは苦手になっていた。
長い時間の沈黙。
この機会を逃したら、私はもう2度とこう向き合って話すことはないのかもしれない、そう感じていた。だから、誰にも聞き取れない声で、話し始めた。

聞こえない。

そう言われたあとは、ダムが崩壊するみたいに泣き叫びながら正直に話した。
ずっと昔から感じていたこと、なぜもっと早く私に兄が自閉症ということを伝えてくれなかったのか、そして自分の態度の謝罪。
言いたかったことを全て言い終わったあとは、とてつもなくすっきりした。
この日が私のなかで、兄という存在との決着がついた気がした。

決着といっても、一切関わらない、そう決めた日だった。

リエクール

Yahoo知恵袋で、質問しているきょうだい児の方の中には暴力を振るわれてしまっているが、まだ高校生で逃げる場所がない方がいた。最初は、少しでも助けになればと、アンサーという形できょうだい児のかたを助けられたらいいなと思っていた。
しかし、限界はあるわけで、いつからか何かつながり合えるコミュニティーを作りたいと考えるようになった。
私の中では、繋がりは私を助けてくれた。私にとっての最初の繋がりは母だったわけだが、それは誰か話を聞いてくれる人、経験を共有できる場所を作りたい。
私にとっての解決は、関わりをなくす、ことだったが人によって違う。それでも、その過程を一緒に旅をするように、作っていけるのではないか、その思いからリエクールを作った。

最後まで読んでいただきありがとうございます。